1966年/第7回研究発表会プログラムから抜粋 | |
昭和32年 (1957) | 9月2日、応援団の吹奏楽部として発足。顧問に内田松樹先生を迎え、初めての楽器(最低品)を3か月計画で購入した。部員は11人だったが、一人として、楽器の持ち方すら知らなかった。 |
昭和33年 (1958) | 新入部員を迎え、曲目もやっと10曲に達した。5月に部則が決定。これによると、第一に女子は入部を禁ずとある。理由は練習の無理ができないことが第一である。誠に残念なことである。 |
昭和34年 (1959) | 部員はやっと18名に達し、おおいに活発になり、そろそろ応援団という殻から抜け始めた。皇太子のご成婚を祝い、市中行進。そろそろ楽器にガタが来た。(安物だったので) |
昭和35年 (1960) | 内田松樹先生が甲府二高へ転任なされたので、新たに藤田勇夫先生を迎えた。8月に初めての合宿を行い、大いに張り切り大いに成果を上げた。(食事は大いにとは言えなかったよう) 9月3日、結成3周年を祝い講堂で盛大な初の発表会を開催(結果は、合宿の栄養不足のためあまり成功とは言えなかった。) 10月、本校創立80周年の記念カーニバルを先導する。 |
昭和36年 (1961) | 顧問に八田政季先生を迎え、9月9日、待望の県民会館における第2回発表会を開催、大好評だった。また、野球部がめざましい成績を遂げ、春の関東大会・夏の甲子園大会に出場したので、我々も大いに応援した。 |
昭和37年 (1962) | 駒井嘉久先生を顧問に迎え、部員も成長し40名に達し、曲目は軽音楽から重音楽(?)クラシックまで大いに広がった。 9月8日の県民会館大ホールにおける第3回研究発表会は多方面からの絶大な好評を受けた。 |
昭和38年 (1963) | 新たに広瀬直樹先生を顧問に迎え、本格派ブラスバンドに成長した。県民会館における第4回研究発表会も県下初の二部制に踏み切り好評を得た。 |
昭和39年 (1964) | 県下初の高等学校合同発表会を甲府商業と開き、利益の一部を福祉施設に役立てた。 部員全員、丹波の山奥にこもり合宿練習を積み、9月12日に第5回研究発表会を催し好評を得た。 |
昭和40年 (1965) | 顧問に橘田登先生を迎えた。今年はベビーブームの最初の年であり数々の支障があったが、皆この困難を克服して第6回研究発表会を開催した。 |
昭和41年 (1966) | 3年生8名を軸として、総部員40名に達し、例年のクラシックの替わりに近年人気のある映画音楽を取り入れ、皆さんに一層親しまれるクラブに成長しました。 |
1968年/第9回研究発表会プログラムより | |
昭和32年 (1957) | 9月2日、吹奏楽部誕生、13本の楽器で産声を上げ甲府一高応援団吹奏楽部として戸籍に入る。 |
昭和33年 (1958) | 2月、予餞会で初舞台を踏み、聴かせる部に成長。 |
昭和34年 (1959) | 10月1日、「女子の入部は認めない。」・・・部則を制定。 |
昭和35年 (1960) | 8月、初の合宿、食事代一食10円、栄養不足で悩む。9月3日、結成3周年を祝し第1回発表会を開催。 10月、本校創立80周年の記念カーニバルを先導する。 |
昭和36年 (1961) | 初の県外遠征(埼玉、甲子園)。県民会館で第2回発表会を開催。 |
昭和37年 (1962) | 軽音楽、重音楽(?)に手をのばす。 第3回研究発表会を開催。 |
昭和38年 (1963) | 本格派に成長、昼夜二部制の第4回研究発表会を開催。 |
昭和39年 (1964) | 県下初の合同演奏会を甲府商業と開き、利益の一部を福祉施設に役立てる。 丹波の山奥で合宿練習を積み、第5回発表会を開催。 |
昭和40年 (1965) | ベビーブーム第一波のしわよせ。第6回発表会を開催。 |
昭和41年 (1966) | クラシックから映画音楽を取り入れた第7回発表会を開催。 |
昭和42年 (1967) | 少数の3年生であったが、困難を克服して第8回発表会を開催。秋の文化祭でJAZZ喫茶開催。 |
昭和43年 (1968) | 痩せた部から今では肥った背の高い部に成長。合宿の食事代一食100円と35年に比べ物価も上がったものだが、物価と同様、レベルも上がった。 第9回発表会はマンネリ化しつつある発表会を打破する試みとしてプログラムの充実、軽音楽レパートリーのラテンへの拡張を中心に企画した。 |